平野啓一郎「ツイッターの文字数制限は『書かなくてよい自由』をもたらしている」
『マチネの終わりに』著者が見通す、21世紀の自由論(後編)
「失われた自由」を取り戻す困難さ
自由というより、法的な権利の問題としてやや突飛な事例を挙げるが、犯罪に関して、被害者の応報感情を慰めるためには、江戸時代のように敵討が許されていたほうがいいといった意見に接することがある。
しかし、森鷗外の『護持院河原の敵討』などを読むと、その権利のために敵討をせねばならない被害者家族は、人生の多大な時間をそこに費やさなければならず、道中、精神的に耐えられなくなる者が出てくるなど、不幸の上にさらに不幸が課せられているような悲惨さがある。
それとて、「しない自由」があると言っても、世間の目に対して、どの程度、その選択が可能であろうか。
さまざまなことに関与する時間やエネルギーという観点から相対的に見るならば、権利や自由の制限には、一定のポジティブな意味もある。一見、自由を奪うように見える機械化・自動化も、反面では「しなくていい自由」を人間に与えるという側面は否定できない。
それを日々の生活で実感しているからこそ、「自動化によって人間の自由が奪われる」といった単純な理屈には、釈然としないものを感じる。といって、生活のあらゆる局面が完全に自動化されることに、諸手を挙げて賛成だという人も、必ずしも多くはないだろう。
私たちが、自由のこれからについて考える際に重要なのは、こうした繊細なためらいを粗雑に扱わないことである。
いったん、自由が失われてしまうと、それを取り戻すのは難しい。車が全面自動運転化されたあとに、やっぱり人が運転する社会のほうがよかったと言っても、おそらくは戻れまい。
レストランの料理までもが自動化されたとして、料理人の技術的な継承がそこでいったん絶えたならば、もう一度、人間の料理する店を増やそうとしても、需要には追いつかないかもしれない。やろうと思えばできようが、私たちはそのリスクやコストをはたして受け容れるだろうか?
馬車や人力車がよかったと言っても、その時代にはもはや戻りようがない。システムが大きく変更されれば、個人の自由は、現実的には、それに適応した形の限定を受け容れざるを得ないのである。
(『自由のこれから』より構成)
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